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略伝自由の哲学第一章① 

略伝 自由の哲学 第一章

 

 「自由の哲学」について、章を追いながら、述べられていることと、述べられていることの形を、かいつまんでお伝えすることにします。その本をじかに読むことへの橋渡しになれば、幸いです。

 

人は考えると振る舞うにおいて精神の自由な者であるか、それとも、ただの自然法則の、かたくなな必然に強いられつつであるか。

 

 これが、はじめの章の、はじまりの文であり、はじまりの問いです。問われているのは、なにごとでしょうか。それが、はじめから、まるごとピンとくるという人は、そういないのではないでしようか。ちょっと読んだだけでは、なんだか有り余るような、一筋縄ではいかないような、とにかく、すぐには答えの出しかねる問いです。それでも、しばらくお付き合いください。はじめは、それとなく読み過ごしていても、読み進むうちには、それと気づいて、立ち返るということがあります。はじめから尻込みするには及びません。なるほど、言い回しは難しくても、いちいちのことばは、あらかじめ専門的なことを知っていなくても、読んでいけるはずです。それらのことばも、言い回しも、まずもっては、考える手だてです。そして、振り返って分かることが度重なるほどに、そもそもの読みがはかどります。

 はじまりの問いにおいて、たとえば「精神の自由」と「自然法則の必然」が対し合うかのようです。 なるほど、問われていることのひとつは、いわゆる「意志の自由」です。しかし、それについても、あらかじめなにかを知っていなくても、別段さしつかえはありません。むしろ、あらかじめ知っていることが、かえって仇になりがちです。「ああ、自由意志、とっくにけりがついてるのに、なにをいまさら」とか。

 いや、そう思う人にしても、「どれどれ、ひとつ、その間抜けぶりを見てやろう」という気になれば、先を読もうとします。そうした読みでも、あながち捨てたものではありません。まずは、シュトラウス、スペンサー、スピノザの説が引かれて、「選ぶ」「求める」「欲する」に、光が当てられます。もしくは、意識が向けられます。なにかを「選ぶ」として、そのもとには「求める」があり、「求める」のもとには「欲する」があります。なんとなく選ぶにしても、そのもとには「求める」とはいえないまでも「こころの向き」があり、「こころの向き」のもとには、「欲する」とはいえないまでも「こころの起こり」があります。さらに、「欲する」のもとにも、なんらかの[基]があります。そもそも、こころが起こるのは、なにかによって起こされてこそです。

 

(「基」に当たるドイツ語はGrundであり、地面、土台、根底、証拠などを意味します。)

 

 そう辿ることは、いわば、もとへと降りることであり、からだへと迫ることです。さらにまた「意志の自由」を巡る論争のみなもとへと遡ることでもあります。その論争のはじまりには、こういう説がありました 。

 

たとえば、石が突かれて動く 。・・・かりに、石が動いているうちに考えだし、みずからがなおも動きつづけようとしているのを知るとしよう。その石がそれだけを意識し、それにつきどうでもよくはいなくなるとして、こう信じるだろう、みずからはまったく自由だ、みずからが動こうとするゆえに動きつづけるのだと。それが、とりもなおさず人の自由だ。だれしもがみずからのことと唱える自由とは、みずからの欲ばかりを意識して、その欲を決めている基を知らないことの他ではない。たとえば乳飲み子は乳を自由に欲しがると信じ、腹を立てた子どもは腹いせを自由にすると、腰抜けは自由に逃げると、さらに酔っぱらいは言わずもがなを自由に言うと信じる。

 

 そう、スピノザという人が、いまから三百数十年前に説いています。いかがでしょうか、読めば読むほど、すっきりと見通しのきく、意識的な説ではないでしょうか。人は、欲することを意識しても、その基を意識しない。よって、自由であると想い込む。つまり、意志の自由は幻想である、と説かれています。そして、スピノザの後の人々(おもに知識人たちですが)も、そのことを延々と言い立ててきました。「自由の哲学」が書かれた頃、いまから百年余り前は、その勢いがピークを迎えようとしていた頃であり、それが「科学的な」説として認められ、公に幅をきかせるようになっていました。

 さて、そのスピノザの説に対しては、こうあります。

 

これは駁する人もあるまいが、乳を欲しがる乳飲み子も、あとで悔いることを言い放つ酔っばらいも、ともに不自由だ。ともに、身の深くで働き、抑えがたく強いる働きを及ぽしてくる、おおもとのことがらについて、些かも知らないでいる。しかし、その類いの振る舞いと、振る舞うことをのみか、振る舞うことへのきっかけとなる基をも意識しての振る舞いとを、ひとつ鍋にしてもいいか。人の振る舞いは、みながみな、ひととおりの趣か。戦場での兵士の行動、実験室での科学者の手順、もつれた外交での政治家の手腕と、乳飲み子の乳を欲しがるとを、科学だと同じ次元に置くのが許されるか。

 

(「趣」に当たるのはArtであり、様相、種類など を意味します。)

 

②へ続く